NEWSポストセブン2017年1月30日付『大阪のカジノ誘致 「上方文化の消失」と京都ぎらい著者懸念』
大阪府・市、与党になっている維新がカジノ誘致に熱心なこと、これに対して文化論的な角度から批判的に論じている。
この文章の筆者はこのように批判する。
上品そうな文化はいらないけれども、下品な金儲けの途はぜひほしい。そんな姿勢を大阪府知事は、あられもなく全国へ見せつけたのである。
全くその通り。
大阪文化・上方文化は本来上品なものである。しかし維新の府・市政は文化的なものを軽視し、下品な風潮を持ち込み、カジノ誘致にも熱心になっている。
筆者はこのようにも指摘する。
大阪は本音の街だと、よく言われる。えらそうな文化や学芸をむやみにはありがたがらない。何よりも銭勘定を重んじる商売人の都市であるという。この常套句になじんできた人なら、カジノへ傾斜する今の大阪をいかにも大阪らしいとうけとめようか。 しかし、ことはそう単純でもない。
として、大企業などがいざという時には資金を大盤振る舞いするなど民間が文化を支えてきた歴史があったものの、大企業などが東京へ移転したことで空白になり、行政がノウハウを持っていない事もあって後回しにされた上に、維新が出てきてその傾向が顕著になったと、歴史的な視点から考察している。
元の文章では触れられていないが、重要だと思われる点について。「えらそうな文化や学芸をむやみにはありがたがらない。何よりも銭勘定を重んじる商売人の都市」というのは、それ自体は大阪文化の特徴でもある。しかしそれは、文化や学芸を敵視して否定するという意味ではない。文化や学芸を特定の選ばれた階層の特権物や「権威」として振りかざすのではなく、市井で普段は一般市民として生活している人が日常生活の一部として広く文化や学芸に触れ、探求し、担い手になるという意味である。
「銭勘定を重んじる商売人の都市」とは、単なる「ケチ」という意味ではない。大富豪などはいざとなれば町のために寄付もおこなうという精神とともにあった。例えば淀屋橋。もともとは豪商の淀屋が町のために資金を出して作らせた橋である。大阪市内中心部には他にも、心斎橋・末吉橋など、江戸時代の豪商が資金を出して作らせた橋があり、橋自体は近代化によって何代かの架け替えを経ていたり河川埋め立てにともなって撤去されていたりするものの、橋名や地名として残っていることも多い。
それらの大阪文化・上方文化はなぜか、反知性主義者や俗物によって、まるで文化や学芸を敵視する反知性主義かのようにゆがめて喧伝され、悪用されるという悲惨な状態となっている。
大阪に関してはなぜか、よそから来た人間や、そもそも大阪のことすら知らない人間が、元からの地元の人間かのように知ったかぶりして、下品なイメージを振りまいても許されるというような風潮が、特に在京キー局のマスコミなどによって作り出されている。
ある在阪ジャーナリストは、大阪の映像を制作した際、一面的なイメージに合う場所を選択しなかったことで、上司にあたる東京キー局の関係者から「大阪はごちゃごちゃしていなければならない」と文句をつけられたことなども明かしているという。
維新という存在自体、そういう俗物的な発想、近現代においてはマスコミ(特に在京)の一面的なイメージによる「大阪」を、一番下品な形で体現している存在ではないか。
維新は、大阪のことを知っているように見せかけて、実際は地理も歴史も全く知らないのではないかと思えるような言動を繰り返している。はっきり言って、同じ空間にいるように見えても、我々が見ている世界とは全く違うパラレルワールドの住人かと思うくらいに話が通じない。
また歴史や文化への理解もめちゃくちゃ。府政では大フィルなどへの補助金減額、市政では大阪市音楽団廃止や文楽攻撃、天王寺動物園の小学生有料化・「レジャー施設」と一面的に扱いながら予算減に伴う飼育動物削減、水道記念館の閉館で淀川水系にしかいないイタセンパラの人工繁殖を断念し生存個体が死亡次第絶滅という危機に追いやる、南港野鳥園では野鳥の解説係も兼務する常駐職員を削減して無人化して単なる公園に変えるなど、どれだけのアホなことをしてきたか。
そのくせ、大阪城に電飾、大阪城公園モトクロス、大仙古墳(仁徳天皇陵)に電飾構想とか、文化財の価値を貶めて一面的なアミューズメントで業者を儲けさせるという視点ばかりには熱心。
こういうのが大阪の行政に悪影響を与えていることは、我々とは見ている世界・住む世界が違うと笑いものにしているだけでは済まない。
大阪文化・上方文化の視点からも、維新は退場させなければならない。