辺境の雑記帳2nd

ニュースや時事問題の考察など

長谷川豊擁立問題「再チャレンジ」は不適切

日本維新の会が元アナウンサー・長谷川豊を次期衆院選予定候補者として擁立するニュース。

長谷川は「人工透析患者は殺せ」など不適切発言が批判され、番組降板となった。またそれ以前にも、テレビ局のアナウンサー時代にはセクハラ発言や、経費の不適切処理などが問題になり、退社に追い込まれた経歴を持つ。

長谷川の擁立に対しては、批判の声が強い。

維新は批判に対して「再チャレンジを許容しない社会はおかしい」などと持ち出している。

日本維新の会常任役員でもある、吉村洋文大阪市長のツイート。

さて、いくつ突っ込みどころがあるのか(苦笑)。

「日本は再チャレンジについて許容性がなさすぎる。誰しも失敗はあり、反省もする。その上での再チャレンジは広く認めるべきだ」「再チャレンジが認められる社会であるべきだ」――これ自体は、あくまでも長谷川の問題とは切り離しての一般論という意味では、その通り。

しかし、長谷川豊の場合は、そういう一般論に押し込まれるような話ではない。

人間として問題があるような言動、社会的に許容されないレベルの言動、表に出るような言論人として完全にアウトというような言動を繰り返したから「失敗」したのではないか。

しかも長谷川の過去の言動については、記者会見では到底「反省」の弁を述べたとは思えないものである。今までの言動の路線は維持する、派手に炎上させた「教訓」を生かして今後はもっとうまく立ち回るとしか受け止められないものだった。

しかも、障害者は殺せだの、自己責任だのと、現代社会では到底容認できないようなことを公然と主張する人物が、国民の代表たる国会議員として活動するなど、ふさわしいわけがない。「再チャレンジ」にしても、舞台を間違えているだろうと。

こんな人物の行為と、「再チャレンジが認められる社会」という一般論を意図的にごっちゃにすることは、結局は社会的にふさわしくない人間を国政に送り込むことになることになり、また維新もそのような政策を持つ政党であるということにもなる。

で、「僕自身、裕福ではない家庭で育ったが、「勉強」を通じて、人一倍努力した。」という一文が挿入されているが、「再チャレンジ」との論理的なつながりがいまいちわからない。