辺境の雑記帳2nd

ニュースや時事問題の考察など

地域ヘイト・風評被害蒸し返すような報道はどうか

2016年12月23日の毎日放送ニュース。ウェブ版で『労働者の街から変わる西成』。

毎日放送2016年12月23日

この記事に著しい不快感を感じた。

しかも出だしが「かつて日雇い労働者の街として賑わい、生活保護者の増加など数多くの課題を抱える大阪市西成区」?ほとんど嘘である。

記事では、西成区の地名を「あいりん地域に流入した一部の人たち、特にそういった流入者が引き起こす否定的な行為」と同一視し、あいりん地域の一部の人たちが西成区のすべてのような扱いで、行政上西成区になっているがあいりん地域とは無関係の天下茶屋・岸里・玉出などの住宅街にも西成区というだけで何か特殊な課題がある街かのように印象づけるような、重大な風評被害になっている。

記事の中身も「あいりん地域」の話で、西成区全域がこういう地域ではない。

またあいりん地域と地理的に重なっている地域にもともと住んでいる住民にとっても、地域環境の悪化で悩まされた上に、行政は2000年代までは「あいりんの人たちへの対策」ばかりで地元の人の要求は放置されるという状況が続いてきた。

こういう扱いは、あいりんの人たちや橋下維新がやってきて、西成区の地名にマイナスイメージがつけられ、西成区の地元の人や縁がある人が嫌がってきた手口そのものである。

地元の人や土地勘のある人にとっての西成区のイメージは、中部や南部だと住吉区・住之江区と大差ない、東側だと阿倍野区西部と大差ないイメージで、特別視扱いされるいわれはないしそんなのは一切望んでいないというのが普通である。住吉区・住之江区・阿倍野区なら流されるところなのに西成区だと勝手に食いつかれ、あいりん地域の否定的現象と同一された虚偽の「西成区」像を一方的に押し付けられ、特殊な街だと騒がれる、特殊な街だということにホコリを持っているに違いないと勝手に決めつけられるなどの被害を受けてきた。

西成区選出の議員は党派に関わりなく、「西成区」と「あいりん地域への流入者対策」は別物として、あいりん問題はそれとして取り組むべきだが、あいりん問題を西成区に押し付けるのは誤り、地元の人の生活環境・地元要求に根ざしたまちづくりという視点から考え直すべきという趣旨を繰り返してきた。

1994年3月18日 大阪市会民生保健委員会 ◆辻昭二郎委員 私たちが住んでおります西成区、西成区というと非常にすさんだ人の住みにくいような地域のような印象が、まことに強うございます。それが証拠に、私たち体験をいたします就職の問題、結婚の問題、これまで大きな差別と言いましょうか、偏見を持たれておることは確かでございます。商店街の店主がどうしても若手の店員が欲しい。そういうことで、自分の生まれ故郷の四国・九州に出かけて行って、職業安定所にお願いをし、中学の卒業生をぜひとも一人私のほうにお願いをしたい。やっとこさと理解を求めて、中学の卒業生の女性店員を確保いたしました。ところが、だんだんと卒業の時期が近くなってまいりました。そうすると、職業安定所のほうから、お約束しとったけれども、どうしても娘さんの両親が承知をしてくれないので、まことに申しわけないけれどもこの約束は取り消していただきたい。そんなことじゃ困りますというので、また即刻職業安定所に行ってお話を聞きますと、両親が大阪へうちの娘は就職をすることはお願いをした。よりによって西成区の商店街にお世話してくれと頼んだ覚えがない。そんな恐ろしい地域にうちの娘はやれませんといって、ついにこれは破談になってしまいました。 (中略)私が当選をさしていただいた昭和34年ごろは、西成区の人口も20万近くあったんですよ。それが36年に釜ケ崎の暴動が起こりました。これから暫時減っていって、現在では人口13万9,000しかない。ところが、不思議なことに、所帯数は7万2,360あるんです。所帯掛ける2で人口足らんのです。1所帯に2人いない。これは一体何やということですね。ということは、老人が多いんです。ひとり老人のところが多い。その子どもはどうしたんかと言うと、結婚するときにこれ幸いに西成区から逃げ出していくんです。住んでよかったなというような気持ちじゃないんです。ああ、出て行ってよかったなというような、そういう若い人に気持ちを持たせておるということは、まことに私情けない限りであります。 しかも、西成区民はありとあらゆる問題に積極的に今日まで対応してまいりました。民生委員といい、保護司といい、町会単位の各団体が福祉問題にしても何にしても、気安く率先して行政に対して協力をしておるわけであります。 ちなみに、昭和36年西成区に起こってはならない暴動事件が起こりました(中略)なぜそんな問題が起こったということの反省に立ちまして(中略:対策を講じてきたという趣旨の具体例が並べられる)とにかく地域を美しくしよう。環境を何とか住民の力で変えようと、今日まで努力を多年に渡って続けてきたんでございますけれども、いまだ西成区の汚名はぬぐい去られないのが現実でございます。 (中略)きょう、ここにお出での理事者の皆さんにもお聞きしたいんですが、東京の山谷、何区にあるかご存じの方は少ないと思いますよ。横浜の寿町、これは何区にあるのかご存じないですよ。ところが、あいりん地域とか釜ケ崎というたら、西成とこうくるわけです。 これは、ぼくはこの前も決算委員会で報道の皆さんにお願いしました。東京は山谷でどんな問題が起こっても、東京の山谷と言って報道されます。それならば、あいりん地域も釜ケ崎も、大阪の釜ケ崎という報道をしてもらいたい。何にも罪のない西成区民が、この地域のためにどれだけ金を使い、どれだけ労力を使って、しかもそれを厚い、厚い愛情をくるめて努力をしてくるにもかかわらず、なぜ我々が汚名を着なければならないんだろうか
1996年3月19日 大阪市会財政総務委員会 ◆柳本豊委員 由緒正しい西成区、どうしてこんなに偏見の目で見られるかということでございます。 実は、昭和36年、釜ケ崎騒動がございました。これを契機としまして、こうした西成区に対する偏見の問題というのが出てきたのではなかろうかと思います。釜ケ崎というのは、実は浪速区水崎町に釜ケ崎という地名がございます。釜ケ崎というのは、西成区にはございません。浪速区に実は釜ケ崎という名前があったわけです。ところが、地名がいつの間にか南下いたしまして、釜ケ崎を今度は改めあいりんと言おう。そのあいりんが、実は西成だ。あいりんの前は釜ケ崎なんですから、あいりんも実は浪速区かいなと思ったら、そうじゃない。あいりんは西成区だ。こういうような言われ方をしております。 昭和31年でございますが、この地域には萩之茶屋小学校、今宮中学校という学校がございます。萩之茶屋小学校は昭和31年、児童の数が1,341名おりました。今宮中学校は2,168名いたんです。それが平成7年現在では、萩之茶屋小学校は141名、今宮中学校が258名、ちょうど昭和31年でございますから大阪市の児童生徒の数というのは最盛期でございまして、現在はおそらく大阪市の児童生徒の数も45%から50%減っているということを聞いておりますが、この地におきましてはまさに90%減なんです。そして、地域住民もこの地域から離散していっているというのが現状でございます。 この昭和36年のあいりん騒動を契機といたしまして、実はあいりん対策と称して全国から集まってくるところの日雇い労働者の対策を講じてこられました。もちろん、この日雇い労働者に関しての偏見というものは断じて許されるものではございません。ところが、あいりん対策、西成区のあいりん、何か西成区民とあいりんとが同じように錯覚をしておられるのが遺憾であるわけでございまして、西成区は西成区民のためにあるのでございまして、日雇い労働者のために西成区が占拠されてはいけないわけです。

2000年代に入ると、地元要求に沿った方向へとシフトしつつあった。

しかし橋下維新は2012年、「西成特区構想」なるものを打ち出した。毎日放送の記事ではその特集となっている。

しかし「西成特区構想」自体、「あいりん地域=西成区のすべて」とする発想から出発し、西成区への風評被害を強める効果にしかなっていない。

橋下は議会答弁で、西成区について「西成区はあいりん地域の一面的なイメージではないがどう考えるか」という、西成区周辺に土地勘があれば誰でもわかるような単純明快な質問に対し、「何の議論をしているかわからない」と答弁した上で、質問した議員がそんなことを何も言っていないにも関わらず「あいりん地域はあのままでいいと議員が言った」と印象付けようとする物言いをおこなった。(2012年1月29日、尾上康雄市議への答弁)

橋下維新が進めた大阪市の廃止解体策動・橋下維新の側がいうところのいわゆる「大阪都構想」では、どこの行政区とどこの行政区がくっつくかという話に矮小化され、「西成区」がジョーカー・ババ扱いでマイナスイメージを強調される報道がなされ、「西成区と一緒になると地価が下がる」など西成区への風評被害が強まった。

もともと西成区では、あいりん地域の一部の人達と同一視された「西成」イメージのせいで地価が下がったり、風評被害を受けてきた。もし「都構想」が実現していた場合、その風評被害が新特別区全域に広がってしまったと想像される。

そのような重大な風評被害を蒸し返すような今回の報道、おかしいのではないか。