辺境の雑記帳2nd

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大阪公立大学の「秋入学」移行や「英語で授業」に言及:吉村洋文大阪府知事

2024年2月、大阪公立大学に関するニュース。

2024年2月9日に大阪府市の合同でおこなわれた「副首都推進本部会議」で、大阪公立大学を国際化を進め、国内外で活躍できるグローバルな人材を育成することを目標に掲げる構想が検討されたとしている。

そしてそれを受けた吉村洋文大阪府知事が、将来的には全学生の「秋入学」への全面的移行や、授業の公用語を英語にすることなどを記者会見で話したという。

教育の政治介入

そもそもの話として、大学の教育活動の具体的な内容などについては、大学自治および教育の自由の原則から、形式上には代表者としての学長の決定とはなるが、実務的には大学関係者が自主的に検討した上で決定されるものとなっている。

しかし吉村知事は、大学関係者を飛び越えて、行政の長および政治家として大学運営や教育活動の細部に関する方針を打ち出しているということになる。これは、政治介入というべきものでる。

大学関係者にとっては、寝耳に水だということ。

なるほど、問題がありすぎる。

「秋入学」の問題点

日本では明治時代以降、4月を年度替わりとする春入学が定着している。一方で外国では秋入学の国もある。

だからといって、「国際化」を口実に、秋入学に移行すると、検討・解決しなければならない課題が多数出て、収拾が付かなくなる。

入学試験の時期の問題。4月から入学時までにブランクができることでの、学生の過ごし方の問題。それに伴う学費や生活費などの扱い。就職が4月前提のままだと、卒業から就職までの間をどうするかの問題。など。

文部科学省はかつて、内部で「秋入学」制度の研究をおこなっていたが、課題が多すぎて、全面的な移行には至らないと判断していた。

「秋入学」が持ち出されたので記憶に新しいのは、2020年。

新型コロナウイルスが猛威を振るい、2020年には年度末から年度替わりの時期にかけて、全国一斉に約2ヶ月間の臨時休校がおこなわれた。

そのことに伴う授業時間確保と学力定着との話と結びつける形で、一部の政治家が「秋入学」を持ち出したということを思い出す。それを持ちだした一人が、吉村洋文大阪府知事という人だった。

しかし「秋入学」については、立ち消えになっている。

そういうことも思い出した。

そして、4年後、この機会とばかりに、「大阪公立大学」という舞台に形を変えながらも、かつて指摘された課題への答えを示さないままに、どさくさ紛れで蒸し返している形になっている。

国際化と「英語で授業」論

また国際化を口実に、「英語で授業をする」という論も疑問。

そもそも、大学関係者が将来的な方向性をまとめたものではなく、知事が一方的にしゃしゃり出て主張したというのは、問題がある。

またこの手の論者は、「国際化=英語」だと短絡的に考え、また「英語の能力=(その内容関係なしに)話すこと」などと短絡的に考えているという意味でも、疑問に感じている。

また一般的にいっても、授業で使用される教授言語については、日常会話で使用される言語とは異なる、独特の難しさがある。

日本では多くの人にとって母語となっている日本語で、高度な概念へのアクセスができるというのが、現在の日本の高等教育の状況である。

しかし非母語である場合が多い教授言語にするということで、概念へのアプローチが困難になることにもつながりかねない。そのことで、英語の取得に時間が取られるようになり、結果的に学問にアクセスできる人が限られてしまい、知の側面では日本全体の地盤沈下にもつながりかねないのではないのか。

大学の話とは少しずれるが、小中学校・高校段階でも、日本語を母語としない、あるいは十分ではない、来日あるいは帰国した児童・生徒への対応は、国際理解教育のひとつの大きな課題になっている。日本語指導の時間や対応できる教員の確保などもおこなわれているが、日常会話にほぼ支障がなくても教授言語の取得が不十分などの状況も生まれ、生徒に不利益が生じている事例があるとも聞く。

大学の教授言語を英語に切り替えると、来日・帰国した児童・生徒が直面しているような状況が、日本全体に広まってしまいかねない。

まとめ

吉村知事の発言は、以上のどの観点からみても、暴走であり、問題であると言うべきであろう。

政治が教育に口を出すとおかしなことになるという意味でも、またそもそも教育的な概念を全く理解せずに思いつきレベルの適当なことを吹いているという意味でも。